半ズボンがトレードマークでトーク力抜群の勝俣州和さん
視聴者を元気づけてくれる底抜けの明るさはどこから来るのでしょうか。
勝俣さんは今ではバラエティ番組の常連ですが、昔はアイドル時代も
あったそうです。
今回はそのアイドル時代からバラエティでの活躍に至るまでを
調べましたので、ぜひ最後までご覧ください。
本題の前に勝俣州和さんのプロフィールをご覧ください。
名前 | 勝俣州和(かっちゃん) |
生年月日 | 1965年3月12日 |
出身地 | 宮城県仙台市(静岡県御殿場育ち) |
学歴 | 日本大学文理学部国文学科中退 |
活動歴 | 劇団一世風靡(1987-1988) CHA-CHA(1988-1992) K2(1992-2001) |
事務所 | 融合事務所 |
現在のレギュラー番組 | 朝だ!生です旅サラダ |
一世風靡セピアから始まった若い勝俣州和
勝俣さんは一世風靡セピアという男性アイドルグループからデビューしています。
一世風靡セピアに興味を持ったきっかけが勝俣さんの妹がファンクラブに入っていた
ようでそこから、一世風靡セピアを知り自分もメンバーに入ろうと考えたようです。
一世風靡セピアの母体に劇団一世風靡がありました。
正団員、準団員、研修生からなり約30名で構成されていました。
一世風靡セピアは音楽を中心に活動したいと声を上げた7人で結成された
派生ユニットです。
勝俣さんはYouTubeもやられていて今回の一世風靡のエピソードも動画内で
語られていたことを抜粋しています。
もちろん結成当時は音楽よりも営業活動が中心になるため「若気の至り」を
大義名分にしてPR活動、大手のプロダクションやレコード会社に直談判をしていた
ようです。その甲斐あってか相手に熱意は十分に伝わったようです。
しかし、現実は厳しいもので「うちの事務所でやれ」とは言われませんでした。
特に、メンバーの哀川翔さんは欠かせない存在だったようで、勝俣さんが聞いた話では
哀川翔さんがビートたけしさんに挨拶をしに行った時のこと
哀川翔「俺らこれからどうしたら良いと思いますか。」 ビートたけし「にいちゃんたち面白いから唯一無二の存在になっちゃえば良いんだよ」
と激励されたようです。面白いことにこの話はメンバーごとに話す内容が変わるみたいで
「都市伝説だけが膨らんでいく」と勝俣さんは語っています。
欽ちゃんと出会いアイドルになる勝俣州和
勝俣さんは1988年にCHA-CHAでアイドルデビューしています。
実はその前身「茶々隊」というグループが作られています。
(ハガキのネタにチャチャを入れるという意味で欽ちゃんが命名した。)
驚くことに「茶々隊」のメンバーの中に元スマップのキムタクと草𦿶剛も在籍して
いました。奇しくもキムタクと草𦿶剛はデビュー前に脱退しています。
その間にもデビュー前のレッスンは続きメンバーの入れ替えも必要に応じて行われ
グループ名も「茶々隊」から「CHA-CHA」に変更されて1988年9月レコード
デビューしました。
結成時のメンバー構成
勝俣州和・西尾拓美・松原桃太郎・中村亘利・木野正人
ちなみに、デビュー前のレッスンは相当厳しかったらしく欽ちゃん曰く
「デビュー前は本当にイジメに近いレッスンをさせた。言ったことが出来なければ
3日でも1週間でも同じことを何回でもやらせた。」と認めています。
また、メンバー各々所属事務所が異なるためバップレコードと浅井企画が預かりと
いう形で活動していました。
その後、爆発的な人気を誇り1992年に「CHA -CHA」は解散しました。
アイドル時代の若かりし勝俣州和
近頃、勝俣さんはアイドル当時を振り返り「実はアイドルグループにいた」
「スマップ並みに人気があった」と話し、当時を知らない人たちを驚愕させています。
でも、実際はどうだったのでしょうか。
ここで一つ当時のエピソードを勝俣さんが語っていたので紹介します。
CHAーCHAがデビューした頃、スマップはデビュー前でしたが、「アイドル共和国」
というレギュラー番組をスマップは持っていたそうです。
その番組にCHAーCHAは歌を歌うゲストとして呼ばれました。
その時、CHAーCHAが歌う時は中居くんは必ず舞台袖で見ていてくれたそうです。
ある時、歌って舞台袖にはける時に中居くんのいる方にはけた勝俣さんは
勝俣「いつも見ているね」 中居「俺、勝俣さんみたいになりたいんですよ」 勝俣「早く追いついてこいよ」
というやりとりがあったと振り返っています。
勝俣さんが「早く追いついてこいよ」と励ましたのも束の間、すぐに追い抜かれてしまった
と勝俣さんらしくオチもつけて話しています。
若い頃から短パンを愛する勝俣州和の謎
勝俣さんといえば半ズボンがトレードマークとして印象深いですよね。
なぜ、半ズボンばかり履いているのか。もちろんなんとなくではなく
ちゃんとした理由があるようです。
以前テレビ番組「ダウンタウンDX」に出演した時
バラエティ番組に出始めた頃、ロケに行っては怒られ、スタジオでも怒られ
怒られ続けて落ち込む日々が続いていたとか。
(いつも笑顔のかっちゃんからは想像つかないですね。)
そんな時に、息抜きで訪れたディズニーランドで運命の出会いをします。
シンデレラ城の前でショーが始まり中央にミッキーとミニーその両脇をドナルド・
グーフィー・プルートといった主要キャラがいました。
しかし、勝俣さんの目を引いたのはミッキーでもグーフィーでもなく一番端で踊って
いたピノキオでした。ピノキオは目立たない位置に居ながら小さな体を精一杯動かし
誰よりも元気に踊っていました。そんなピノキオの姿に勝俣さんは心を奪われて
しまいました。その時から勝俣さんは
俺は芸能界のミッキーやミニーにはなれないかもしれないけれど、端っこでも
精一杯踊ってみんなを盛り上げるピノキオにはなれるんじゃないか
と心に刻まれピノキオのファッション「短パン」を真似て目標も「ピノキオ」に
しました。
その後のかっちゃんはみなさんご存知のように「かっちゃん=短パン」は定着して
元気なキャラというイメージもかっちゃんの思惑通り願いが叶っていますね。
交友関係が広い勝俣州和
勝俣さんは芸能人とも幅広い交友関係があります。
タモリさん・和田あき子さん・とんねるずさん・ダウンタウンさん・はじめ
色々なジャンルの方とも交友があります。
その中でも和田あき子さんと距離が縮まった話を勝俣さんがしていたので
紹介します。
和田アキ子さん(以降アッコ)がMCを務める番組「アッコにおまかせ」の
生放送で勝俣さんがバンジージャンプをしなくてはならなくなったそうです。
実は、その現場は数ヶ月前に死亡事故があった場所であることを本番10秒前に
スタッフから知らされた勝俣さんは結局飛べませんでした。
当然、アッコさんからは叱責され「お前、もし次に飛べなかったら潰すからな」と
勝俣さんは言われました。
しかし、死亡事故が頭から離れなかった勝俣さんは2回目も飛べませんでした。
2、3分のコーナーを10分以上飛べなかった事から勝俣さんは芸能生活終わったと
思ったそうです。そして
和田「なんで飛ばへんのや!」 終わったと思った勝俣さんは 勝俣「ふざけんな!テメェこの野郎!お前飛んでみろ。人にばっか命令しやがって」 なおも怒りが鎮まらず 勝俣「お前これからテレビ局帰ってぶん殴るからな!待ってろよ、この野郎」 と怒鳴りつけた
その後、テレビ局に戻るとスタッフに促されて勝俣さんはアッコさんの元に
謝罪に向かうことになりました。
この時を回想して勝俣さんは処刑台に向かう気持ちだったと語っています。
勝俣さんはアッコさんのところに行って「すみませんでした。飛べませんでした。」
と言ってビンタでもなんでもされていいやという気持ちでいたようですが、
当のアッコさんは「おもろかったなぁ。めっちゃ笑ったわ。また来週も頼むわ」と
労をねぎらってくれました。
「それがきっかけで2人で飲みにいくようになった」「あの人が受け入れてくれた」
と勝俣さんはアッコさんの懐の深さをしみじみと語っています。
まとめ
勝俣さんはアイドルから始まり今ではバラエティ番組には欠かせない存在に
なっています。
それは、勝俣さんが放つ底知れぬ明るさと優しさがお茶の間の人々を笑わせて
くれるからに他ならないからでしょう。
今後も持ち前の明るさとトーク力で見る人を元気づけてくれることを
期待して活躍を見守っていきましょう。
最後までご覧いただきありがとうございました。
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